諸葛亮七夕計

  • Sunday, July 7, 2002

七夕と言えば織姫と彦星の悲しい恋物語。
恋わずらいで仕事が手につかなくなり、二人を裂いたとゆう話だったと記憶する。
しかし!これは後年作られた話でして元々は中国は春秋時代、
いわゆる三国志のエピソードのひとつなのです。

魏・蜀・呉の三国は、魏帝の曹操、蜀帝の劉備が死につつもかろうじて均衝を保っていた蜀号建興余年。
劉備玄徳の死により蜀国南部の益州で乱が起き、その平定に丞相(総理大臣みたいなもの)自ら乗り出した軍師・諸葛亮孔明は、次々と反乱軍を撃ち破りさらに南蛮国へと進軍した。

南蛮国王・孟獲は蜀軍に幾度と破れながらも、孔明の「侵攻ではない」とゆう信念のもとに、捕らえられる度にあえて逃がした。しかしそれでも降伏することはなく周辺の長を集め軍を起こすこと5度目。地理に詳しい孟獲軍は「亜馬河」とゆう背後に峻険な山がそびえる急流の河川岸に砦を築いた。さすがの孔明も自然の要害には頭を悩ませ、この防塞作りを指揮したものがいるはずだと孟獲軍に間者(スパイ)を放ち、その報告には「比弘芒」という軍師がいるとゆう事を知った。
この比弘芒とゆう者。身の丈7尺(210cmぐらい)で黄金の髪に紺碧の瞳とゆうことなので、ギリシャあたりからの流れ者だったのだろう。

孔明は優れた軍師・武将には敵将とは言え礼を惜しまぬ人で、なんとか比弘芒を自軍に迎えようと計略をめぐらせた。
孟獲はもともと疑心が強く、流れ者の比弘芒を心から信頼してはいないと見た孔明は、比弘芒に内乱の心あると噂を流し、比弘芒は孟獲に孔明の謀と訴えたが孟獲はこれを信じず、比弘芒は打ち首は逃れたものの軍を追われた。
ここぞとばかりに孔明は蜀軍旗には
「比弘芒師、降日免(比弘芒、降伏するなら即日にて許す)」
という白旗を掲げた。
これを見た比弘芒は、孟獲への一飯の恩義貫くべく孔明に降伏することなく亜馬河に身を投げたという。

すると激流続く亜馬河が突如として止み、
夕日のあたる水面はまるで黄金のごとく輝いた。
この機に蜀軍は対岸に渡り、またも孟獲を捕らえる事に成功した。しかし孔明は優れた軍師を惜しみ悲しみ、孟獲は忠義の将を疑った自分を恥じ、また孔明の敵軍といえど哀れむ姿にうたれて孟獲はひざまづいたのだった。ここに南蛮国の降伏が成立し、結果的に両軍に多大な死者を出すことなく平定された。

それから蜀国・南蛮国では比弘芒が身を投げた7月7日に、その時使った「比弘芒師、降日免(ヒコウボウシ、オリヒメン)」の軍旗をかかげ、大軍師孔明といえども浅はかな計略により優れた人物を失った戒めをこめて祭し、比弘芒の身を投げた「亜馬河(アマガワ)」の流れはそれ以来激しさを潜め、亜馬河近隣の村びと達は氾濫による被害のなくなったことを祝いあったとさ。



。。。もちろん全部ウソです。

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